中国ドラマ「燕雲台」には蕭家の三姉妹が登場します。
三姉妹の次女が蕭烏骨里(しょう・うこつり)。
烏骨里は架空の名前ですが。烏骨里にはモデルになった人物がいます。
一部の歴史書で蕭伊勒蘭(しょう・いろくらん)と書かれている人物。
契丹の宰相・蕭思温の次女で、蕭太后の姉です。
烏骨里(うこつり)のモデルになった人物は蕭伊勒蘭と書きましたが。実は本当の名前はよくわかっていません。
「遼史」では「喜隱の妻は皇后の姉」としか書かれていません。
捕らえられたときには、夷懶(いらん)という表現もありますが。「懶」は怠け者の意。侮辱した表現なので処刑されたあとに付けられたあだ名でしょう。
「契丹国志」では「趙妃」。と称号だけ。
清朝時代に完成した歴史書「続資治通鑑」では名前は蕭伊勒蘭(しょう・いろくらん)になっています。
何か資料があったのだと思われますが、700年後に書かれたものなのでどこまで本当かわかりません。
伊勒蘭(いろくらん)も夷懶(いらん)も発音は似てるので元になった名前もこんなかんじの発音だったのかもしれません。
蕭烏骨里のモデルになった蕭伊勒蘭とはどんな人なのか紹介します。
蕭伊勒蘭(しょう・いろくろん)の史実
生年月日:不明年
没年月日:1007年
国:遼(りょう)、大契丹国(だいきったんこく、イェケ・キタイ・オルン)
姓 :蕭(しょう)
名 :伊勒蘭(いろくらん)?、夷懶(いらん)?
称号:趙妃、宋妃
父:蕭思温
母: 燕国公主・耶律呂不古
姉妹:
蕭胡輦(皇太妃)。耶律 罨撒葛の妻。
蕭綽 景宗・耶律 明扆の妻。
夫:
耶律 喜隱(やりつ・きいん)宋王
子:
耶律留礼寿
彼女は遼の第5代 景宗~6代 聖宗の時代に生きた人物です。
日本では平安時代になります。
趙妃蕭氏のおいたち
蕭氏は一族から皇后が出る契丹の名門
蕭胡輦(しょう・これん)がいつ生まれたのかは不明。
父の蕭思温(しょう・しおん)は北府宰相。4代・穆宗、5代・景宗に仕えた重臣です。
母は燕国公主・呂不古。2代皇帝・太宗 耶律 堯骨(やりつ・ぎょうこつ)の娘です。
姉に蕭胡輦(しょう・これん)がいます。太平王 耶律 罨撒葛と結婚して。皇太妃になった人物。
妹に蕭綽(しょう・しゅく)がいます。 景宗・耶律 明扆の妻になった人物です。
景宗の時代
969年。穆宗が死亡。妹・蕭綽の夫・景宗が即位しました。
景宗の即位後。穆宗の兄弟・耶律喜隱(やりつ・きいん)と結婚しました。
喜隱は穆宗時代の終わりごろ謀反事件を起こして投獄されていました。景宗の即位後に恩赦で釈放されました。喜隱は過去にも事件をおこしていて。素行に問題のある人物だったようですが。
蕭思温はなぜ娘を喜隱と結婚させたのかはわかりません。
この結婚で蕭思温は太祖の三支の血統すべてに娘を嫁がせることになりました。誰が皇帝になっても蕭家は安泰(少なくとも誰かが生き残る)というわけです。
耶律喜隱は宋王(趙王ともいわれます)になりました。
974年。喜隱はそそのかされて謀反を起こしましたが釈放されました。
聖宗の時代
982年。景宗が死去。
聖宗が即位。聖宗は幼いので蕭太后が摂政になり政治を行っていました。
この年。北宋の投降兵200人が喜隱をさらって王に担ごうとしました。でも失敗して喜隱の息子の耶律留礼寿を担いで王にしたと主張。
景宗は軍を派遣して反乱軍を鎮圧した後、喜隱と留礼寿を逮捕させると二人を処刑しました。
蕭伊勒蘭は処分は受けませんでした。
1003年。宋側の記録では、李信という契丹に降伏した元宋の役人から得た情報として。蕭伊勒蘭は夫と子の死後。蕭太后の毒殺を試みたと奴婢に訴えられ、蕭太后によって賜死になったと伝えました。
ところが契丹側の記録では。
1006年。姉の蕭胡輦とともに逮捕され、蕭胡輦は懐州に投獄され。蕭伊勒蘭は軟禁に投獄されたと記録されています。
その後、彼女がどうなったのかはわかりません。
蕭胡輦は賜死になっているので、蕭伊勒蘭も賜死になったと考えられています。
経緯はよくわかりませんが、蕭太后と対立して逮捕され毒殺されたのは確かなようです。
ドラマ
燕雲台 2020年、中国 演:盧杉 役名:烏骨里
ドラマの中では烏骨里(うこつり)の名前で登場。
喜隱に恋しています。元気がいいけどあまり頭がよくない女の子?。
中国ドラマによくある、恋したらまわり見えなくなってトラブルを引き起こすタイプのキャラクターです。
史実同様に喜隱と結婚。息子の留礼寿が誕生。
でも喜隱が謀反で処刑され。燕燕を毒殺しようとたくらむ。
とおおまかな流れは史実と同じです。
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