李氏朝鮮第16代国王・仁祖(インジョ)は多くの韓国時代劇に登場します。
クーデターで王になり。清との戦争を経験し歴史にも名を残す国王です。
即位する前は綾陽君(ヌンヤングン)と言いました。
ドラマでは人として情けないところはあるものの、同情的に描かれることが多いですね。外国との戦争を戦い抜いた王様というイメージがあるため。低い評価には出来ないのでしょう。
兄弟が光海君派に粛清されたため復讐心をもっていました。
そこで光海君に反感を持っている重臣たち共に反乱を起こして自分が王になります。
史実の仁祖(インジョ)どんな人物だったのか、
王子だった綾陽君(ヌンヤングン)時代からクーデターで即位するまでを紹介します。
綾陽君(ヌンヤングン)/仁祖(インジョ)の史実
いつの時代の人?
生年月日:1595年12年7日
没年月日:1649年6月17日
名前:李倧(イ・ジョン)
称号:仁祖(インジョ、じんそ)
清式諡号:荘穆王
父:定遠君
母:具氏
正室:
仁烈王后韓氏
荘烈王后趙氏
側室
廃貴人 趙氏
貴人 張氏
淑儀 羅氏
淑儀 朴氏
淑媛 張氏
尚宮 李氏
子供
昭顕世子(母:仁烈王后)
孝宗(母:仁烈王后)
麟坪大君(母:仁烈王后)
龍城大君(母:仁烈王后)
孝明翁主(母:貴人趙氏)
崇善君(母:貴人趙氏)
楽善君(母:貴人趙氏)
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の16代国王。日本では江戸時代初期の人になります。
おいたち
父は定遠君。定遠君は14代宣祖の5男。大君ではないので側室の子供だとわかります。
王の側室から産まれた息子の息子。ということなので本当ならどう考えても王になれるはずのない人でした。
宣祖には多くの息子がいましたが、定遠君は早くに結婚して息子をもうけました。仁祖は宣祖にとっては最初の孫になったのです。そのため宣祖に大変可愛がられ王宮で育てられました。
いたずらもせず、言葉も少ない子供でした。宣祖の正室・懿仁王后も仁祖を大変可愛がったといいます。
1607年(宣祖40)。12歳で綾陽君(ヌンヤングン)の称号が与えられました。
1608年。祖父・宣祖が亡くなると宮殿を出て父・定遠君とともに慶熙宮で暮らしました。
1610年(光海君2)。戸曹判書の韓浚謙(ハン・ジョンギェム)の娘と結婚しました。韓氏は仁祖の1歳年上でした。
1612年(光海君4)。18歳の時。長男の昭顕世子が産まれました。
弟の綾昌君が死亡、復讐を決意
1615年(光海君7)。永昌大君が謀反の疑いで処刑され。仁穆王后は廃位になって幽閉されました。
このとき、弟の綾昌君(ヌンチャングン)も謀反に加担したとして流刑になり、後日自決しました。その知らせを聞き、父・定遠君もショックのあまり死亡しました。この事件を癸丑獄事といいます。
遺体安置所で対面した綾陽君は復讐を誓います。
この事件が仁祖反正のきっかけになります。
仁祖反正
1620年(光海君12)。李曙、金瑬(キム・リュ)、金自點(キム・ジャジョム)、妻の実家の具宏(グ・グケン)、具仁垕らが、綾陽君を担いで謀反を起こす計画をたてました。綾陽君は彼らと密かに会って計画を進めます。
1622年(光海君14)。西宮に幽閉されている仁穆王后を李貴(イ・グィ)、金自點(キム・ジャジョム)が救い出すのではないかという噂がたちました。
1623年(光海君15)4月11日の夜。綾陽君は金瑬(キム・リュ)、金自點(キム・ジャジョム)らとともにクーデターを起こします。西人勢力を中心に支持者を集め、2000人の兵で王宮を襲撃。昌徳宮の門はあらかじめ内通していた訓練隊長によって門が開けられていました。
綾陽君が宮殿に到着した時、光海君は逃げていましたがすぐに捕まりました。綾陽君は光海君から王の身分を剥奪。君の身分に下げて江華島に流しました。光海君の側近・李爾瞻(イ・イチョム)ら北人派を処刑。40人あまりが斬首され、200人が粛清されました。
李氏朝鮮では何度もクーデターが起きて権力者が変わっています。これほど大量に人を殺したのは仁祖反正以外にはありません。
綾陽君がクーデターを起こしたときの大義名分は廃妃になった仁穆王后の復活でした。形式的に仁穆王后を復帰させ、彼女から王の指名を受けました。しかしその後、仁穆王后が王宮内で手厚く敬われることはなく。扱いは疎かでした。クーデターを起こす大義名分として利用しただけでした。
仁祖の即位
綾陽君は国王になりました。光海君が仁穆王后を幽閉して永昌大君、臨海君を殺したこと。後金と友好的な立場を取って明をないがしろにしたことを問題として取り上げ。それを正すために決起したと正当化しました。
仁祖は即位すると光海君の支持勢力だった北人派を徹底的に弾圧しました。朝鮮では国王が即位すると恩赦で罪人を介抱することがありますが、それも行わず多くの人々を殺害しました。おかげで北人派がいなくなってしまいました。殺した人の数なら仁祖は燕山君以上でしょう。
また、仁祖反正に参加した者たちを3つにわけて功臣として官職を与えました。しかし、分配が公平ではなかったため後に反乱のもとになります。
光海君時代には政治の場から離れていた西人派と南人派が政治に参加。特に仁祖を指示した西人派が中心勢力になりました。
仁祖のクーデターは国内でもあまり支持を得ていませんでした。仁祖を支持する西人派だけでは政治はできないので南人派もとりこんだのです。
仁祖反正に参加した重臣たちはことあるごとに自分たちのお陰で仁祖が即位できたと発言していました。
このような功臣たちの態度に我慢の出来ない仁祖は、金集(キム・ジプ)、宋浚吉(ソン・ジュンギル)、宋時烈などを採用。王族系の南人、李元翼(イ・ウォニク)を領議政に採用しました。功臣の力が強くなりすぎるのを牽制しようとしました。
イグァルの乱
1624年。武官のイ・グァルが反乱を起こしました。仁祖反正に参加し、イ・グァルがいなければ成功しなかったと思えるくらい大きな功績を上げたにも関わらず、彼の扱いは低いものでした。イ・グァルは見返りが少なくあつかいが悪かったことに腹を立てて反乱を起こしました。
イ・グァルは1万2000の兵を率いて各地で官軍を破り漢城(ソウル)に迫りました。
イ・グァルが開城(ケソン)を過ぎて臨津江を渡ったことを聞いた仁祖は、王宮を捨てて水原に逃げました。
張晩、林慶業(イム・ギョンオプ)がイ・グァルを破り、イ・グァルは敗走しました。イ・グァルは討ち死にしましたが残党は後金に逃れました。後金が朝鮮を攻める口実になります。
定遠君問題
仁祖は即位した後、父・定遠君は王の父・大院君になりました。あらたに「庭園府院君」の称号が贈られました。仁祖はそれでは満足せず、定遠君を王にしようとしました。仁祖反正に参加した功臣たちも賛成しました。仁祖はクーデターで王になったので王としての正当性は弱いままでした。父を王にすることで仁祖の正当性を主張するためです。仁祖は追尊して「元宗」の諡を贈りました。
しかし、金長生、キム・ジプ、許穆など仁祖反正に参加しなかった重臣たちは反対しました。仁祖は宣宗の後継者なので定遠君を王にする必要はないというのです。彼らは辞職したり、解雇されました。あとに残ったのは一緒にクーデターを行なった功臣たちだけでした。
クーデターで王になった仁祖でしたが。このあと大きな試練が訪れます。後金(清)との戦いが待っているのでした。
仁祖の続きはこちら↓
テレビドラマの仁祖
宮廷女官キム尚宮 KBS 1995年 演:バク・ジンヒョン
王の女 SBS 2003年 演:アン・ホンジン
快刀ホン・ギルドン KBS 2008年 演:チャン・グンソク
イルジメ SBS 2008年 演:キム・チャンワン
最強チル KBS 2008年 演:チェ・ジョンウ
タムナ MBC 2009年 演:イ・ビョンジュン
チュノ KBS 2010年 演:キム・ガプス
馬医 MBC 2012年 演:ソン・オジェドク
宮廷残酷史-花たちの戦い JTBC 2013年 演:イ・ドクファ
三銃士 tvN、2014年 演:キム・ミョンス
華政 MBC、2015年 演:キム・ジェウォン
ノクドゥ伝 KBS、2019年 演:カン・テオ 役名:チャ・ユルム
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