李氏朝鮮第16代国王・仁祖(インジョ)は多くの韓国時代劇に登場します。
クーデターで王になり。清との戦争を経験し歴史にも名を残す国王です。
ドラマでは人として情けないところはあるものの、同情的に描かれることが多いですね。外国との戦争を戦い抜いた王様というイメージがあるため。低い評価には出来ないのでしょう。
王に即位後、後金・清との戦いが始まるところから最期までを紹介します。
史実の仁祖(インジョ)どんな人物だったのか紹介します。
仁祖(インジョ)の史実
プロフィール
称号:仁祖(インジョ、じんそ)
清式諡号:荘穆王
生年月日:1595年12年7日
没年月日:1649年6月17日
母:具氏
正室:
仁烈王后韓氏
荘烈王后趙氏
側室
廃貴人 趙氏
貴人 張氏
淑儀 羅氏
淑儀 朴氏
淑媛 張氏
尚宮 李氏
子供
昭顕世子(母:仁烈王后)
孝宗(母:仁烈王后)
麟坪大君(母:仁烈王后)
龍城大君(母:仁烈王后)
孝明翁主(母:貴人趙氏)
崇善君(母:貴人趙氏)
楽善君(母:貴人趙氏)
彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の16代国王。日本では江戸時代初期の人になります。
仁祖の家系図
即位直後の仁祖
クーデターで王になる
父は定遠君。定遠君は14代宣祖の5男。
1623年(光海君15)。綾陽君は金瑬(キム・リュ)、金自點(キム・ジャジョム)らとともにクーデターを起こして光海君から王座を奪いました。
即位の経緯はこちらをごらんください
李适(イ・グァル)の乱
1624年。李适(イ・グァル)が反乱を起こしました。仁祖反正に参加し、李适がいなければ成功しなかったと思えるくらい大きな功績を上げたにも関わらず、彼の扱いは低いものでした。李适は見返りが少なくあつかいが悪かったことに腹を立てて反乱を起こしました。
李适は1万2000の兵を率いて各地で官軍を破り漢城(ソウル)に迫りました。
李适が開城(ケソン)を過ぎて臨津江を渡ったことを聞いた仁祖は、王宮を捨てて水原に逃げました。
張晩、林慶業(イム・ギョンオプ)が李适を破り、李适は敗走しました。李适は討ち死にしましたが残党は後金に逃れました。
定遠君問題
仁祖は即位した後、父・定遠君は王の父・大院君になりました。あらたに「庭園府院君」の称号が贈られました。仁祖はそれでは満足せず、定遠君を王にしようとしました。仁祖反正に参加した功臣たちも賛成しました。仁祖はクーデターで王になったので王としての正当性は弱いままでした。父を王にすることで仁祖の正当性を主張するためです。仁祖は追尊して「元宗」の諡を贈りました。
しかし、金長生、キム・ジプ、許穆など仁祖反正に参加しなかった重臣たちは反対しました。仁祖は宣宗の後継者なので定遠君を王にする必要はないというのです。彼らは辞職したり、解雇されました。あとに残ったのは一緒にクーデターを行なった功臣たちだけでした。
後金・清との戦争
戦いになるまでのいきさつ
17世紀の初め。満洲地方で女真のヌルハチが後金を建国。明を脅かす存在になっていました。光海君と大北派は中立を保ち明と後金の両方と国交を結んでいました。
ところが国際情勢を読めない仁祖と西人派は後金との交易を廃止。反金親明政策を実施しました。
1621年。明の将軍・毛文龍が鉄山(平安道)沖の島に進駐するのを認めました。毛文龍は何度か朝鮮国内から出撃して後金を襲撃しました。
1624年の李适の反乱は鎮圧されましたが。反乱軍の残党が後金に逃げ込み仁祖を廃位するように訴えました。
丁卯戦争
1627年。後金のハン(王)ホンタイジは朝鮮への派兵を決定。ベイレ(王族)のアミンたちに3万の兵を与え朝鮮征伐を命令しました。これにはサルフの戦いで捕虜になった姜弘立も含まれていました。
仁祖たちは後金への対策をしてなかったのであっという間に攻め込まれてしまいます。後金軍は義州城を攻め落として平山郡までやってきました。漢城も危なくなったので仁祖たちは江華島に避難しました。
圧倒的に有利だった後金軍でしたが。ホンタイジは明との戦いも続いていたので長期戦にするつもりはありません。ホンタイジは朝鮮に和平交渉を求めてきます。
朝鮮の朝廷内には徹底抗戦を主張するものもいましたが、仁祖たちはすぐに和平に応じました。
その結果
・後金を兄、朝鮮を弟とする。
・朝鮮は明の年号「天啓」を使わないこと。
・朝鮮は朝鮮の王子の代わりに、王族の李玖(イグ)を人質として差し出すこと。
・後金と朝鮮は今後互いの領土を侵害しないこと。
という和平条約がむすばれました。
ただこのときも朝鮮と明は断絶したわけではなく、朝鮮と明の国交は認められていました。
この戦いを朝鮮では「丁卯胡乱」といいました。
清の建国
1636年。後金のホンタイジは国号を「大清」にして「皇帝」に即位しました。その知らせは朝鮮にも伝えられました。
中華の世界観では世界で「皇帝」を名のるのは一人だけ。「小中華(小さな中華=中国の一番の子分)」を自称する朝鮮が皇帝と認めるのは明の皇帝だけです。司憲府の洪翼漢が「後金の王が我が国の臣民を隷属させて皇帝になるなど言語道断」とうったえ、仁祖はその意見を認めました。そして仁祖は「ホンタイジを皇帝とは認めない」と返事しました。
仁祖の返事を受け取ったホンタイジは「謝罪しなければ攻撃する」と脅してきましたが。仁祖は無視しました。
激怒したホンタイジは朝鮮攻撃を決定します。
丙子戦争
1636年12月。ホンタイジは自ら10万の兵を率いて都の盛京(瀋陽)を出発。
旧暦12月8日には鴨緑江を渡って朝鮮に侵入してきました。
義州府尹の林慶業は白馬山城で清軍を食い止めようとしましたが清軍は白馬山城を迂回して漢城を目指しました。
旧暦12月13日。仁祖は清が朝鮮に攻めてきたことを知りました。14日には清軍は開城(ケソン)を通過。仁祖は鳳林大君や王室の家族を江華島に逃がしました。
夜には仁祖も江華島に避難しようとしましたが、すでに清軍に江華島への道を塞がれていました。そこで仁祖は昭顕世子ともに1万3千の兵をつれて漢城の近くの南漢山城に立てこもりました。用意できた食料は50日分。
旧暦12月29日。ホンタイジが漢城を経由して南漢山城までやってきました。清はその後も兵を増やして包囲を続けました。
旧暦1月22日。ドルゴン率いる別働隊が江華島を攻め落としました。江華島にいた朝鮮軍は全滅。鳳林大君が捕虜になりました。
旧暦1月28日。ホンタイジから降伏勧告がきます。
主戦派と和平派の議論がありましたが、最終的に仁祖は降伏を決意しました。
三田渡の屈辱
旧暦1月30日。仁祖は南漢山城を出て、漢江南岸の三田渡にある清軍の陣に向かいました。そして朝鮮王の制服から平民の着る白い服に着替え、上段に座るホンタイジに対して。最下段から「三跪九叩頭の礼(1回ひざまづいて3回手を地面につけて頭を地面に打ちつける✕3セット繰り返す」を行いました。
ただし「三跪九叩頭の礼」そのものは中華皇帝に対して臣下が行っている作法です。朝鮮王や琉球王も中華王朝の使者を迎恩門(守礼門)で迎えたときに行いました。三跪九叩頭の礼は事大主義(大国に従属して生きること。朝鮮は建国からずっと明に従属するのが国の方針)の国にとって屈辱ではありません。むしろ「最大限の礼儀」を表現する作法です。
韓国ドラマではやってませんが、明や清から皇帝の使者がくると朝鮮王は迎恩門(守礼門みたいなやつ)で皇帝の使者に跪いていました。
朝鮮が屈辱だと感じたのは朝鮮が清の臣下になってしまったこと。野蛮人のはずの満洲人(女真族)に最大限の礼儀を尽くすことです。
その後、11項目の和平条約(丁丑約条)が結ばれました。
・朝鮮は清国の藩属国である。
・朝鮮は明を宗主国とするのをやめる。
・朝鮮は仁祖の長男・李溰、次男・李淏、大臣の子らを人質として送る。
・朝鮮は毎年、黄金100両・白銀1000両、20あまりの品を清国に送ること。
・城郭の増築や修理は事前に清に許可をもとめること。
・清が明を征服する時は決められた期日までに援軍を送ること。
・皇帝の誕生日・正月・冬至と慶弔の使者は明との旧例どおりに使者を送ること。
・日本との貿易は今までどおりに行うこと。
等です。
こうして仁祖は漢城の宮殿に戻ることを許されました。
この戦いを朝鮮では「丙子胡乱」といいました。
この戦いで清に連行された朝鮮人捕虜は50万人ともいわれます。
「大清皇帝功徳碑」問題
清は撤退しましたが。まだ問題は残っていました。
清は「石碑を建てろ」と命令してきました。清の太宗・ホンタイジを讃え、朝鮮王・仁祖が謝罪する内容の碑文です。その内容まで朝鮮が決めろというのです。敵国を称える碑文など誰も作りたくはありません。何人もの辞退者が出ましたが最終的に仁祖が命令して作らせました。
1637年。「大清皇帝功徳碑」は完成しました。「三田渡碑」ともいいます。
昭顕世子の死
清との取り決めで昭顕世子・鳳林大君とその妻子が清の人質になりました。
昭顕世子・鳳林大君は盛京(瀋陽)で8年間人質生活を送りました。
昭顕世子、1644年には北京に入り。
1645年。昭顕世子は朝鮮に帰国しました。明が滅んだので人質は必要なくなったのです。昭顕世子は清で手に入れた西洋の物も持ち帰りました。
ところが昭顕世子は帰国して2ヶ月に病気で寝込んでしまいます。
医師はマラリアと診断しましたが、その3日後の4月26日に昭顕世子が死亡しました。
嬪宮姜氏の兄弟たちが医師の李馨益が怪しいと訴えましたが仁祖は却下しました。
昭顕世子は親清派だったともいわれ。清に反感をもつ仁祖や周辺の大臣から嫌われていたとも言います。仁祖の寵愛する貴人趙氏が昭顕世子夫妻と仲が悪かったともいいます。
昭顕世子の死には謎が多いです。
鳳林大君を世子にする
1645年閏6月。鳳林大君が世子になりました。
鳳林大君にするか、昭顕世子の息子・慶善君にするかで問題になりました。
大臣の中には世子の息子が後継者になるべき。という者もいましたが慶善君はまだ11歳。
仁祖は50歳なのでいつ死んでもおかしくありせん。仁祖は幼い慶善君では不安だと言うので鳳林大君を世子にしました。
姜氏一族への処罰
ところが世子の決定に不満だったのは昭顕世子の妻・姜氏の一族です。
1645年。嬪宮姜氏の兄弟たちは仁祖への不満を口にするようになりました。そこで仁祖は嬪宮姜氏の兄弟たちを流罪にしました。
1646年。仁祖の食事に毒がもられるという事件が起こりました。
仁祖は嬪宮姜氏を犯人だと決めつけて幽閉しました。
そして大臣を呼んですぐに処刑するように命令しました。
領議政の金瑬(キム・リュ)たち多くの重臣たちは憶測だけで処刑はできないと反対しました。左議政の金自點(キム・ジャジョム)だけが仁祖に賛成しました。
仁祖は大臣たちの反対を押し切って嬪宮姜氏の処刑を決定。
嬪宮姜氏は賜死になってしまいます。
1647年。仁祖は昭顕世子の息子たち慶善君、慶完君、慶安君を済州島に流罪にしました。1648年には慶善君、慶完君が死亡。生き残ったのは慶安君だけでした。
仁祖の最期
鳳林大君を世子に決めた頃から仁祖は病気がちになり。ついいには寝込むようになりました。
1649年。仁祖は危篤になってしまいます。
鳳林大君は壮烈王后を迎えに行かせましたが、間に合いませんでした。
1649年6月17日(旧暦5月8日)仁祖が死去。享年55。
鳳林大君が王(孝宗)に即位しました。
テレビドラマの仁祖
宮廷女官キム尚宮 KBS 1995年 演:バク・ジンヒョン
王の女 SBS 2003年 演:アン・ホンジン
快刀ホン・ギルドン KBS 2008年 演:チャン・グンソク
イルジメ SBS 2008年 演:キム・チャンワン
最強チル KBS 2008年 演:チェ・ジョンウ
タムナ MBC 2009年 演:イ・ビョンジュン
チュノ KBS 2010年 演:キム・ガプス
馬医 MBC 2012年 演:ソン・オジェドク
宮廷残酷史-花たちの戦い JTBC 2013年 演:イ・ドクファ
三銃士 tvN、2014年 演:キム・ミョンス
華政 MBC、2015年 演:キム・ジェウォン
ノクドゥ伝 KBS、2019年 演:カン・テオ 役名:チャ・ユルム
コメント