万貴妃は明朝・成化帝の側室。
本名は万貞児(ばん・ていじ)。
もとは成化帝の子守をしていた侍女です。成化帝は非常になついていて、17歳歳上の万貞児を側室にしました。
万貴妃は非常に嫉妬深く、他の側室を堕胎させたり、皇太子の命を狙ったりする悪女と言われます。
もちろん万貴妃にも嫉妬はありますし、賄賂をとったり、一族が出世したりと中国王朝おなじみのことはやってます。身分が低く、皇帝より17歳歳上で寵愛を独占してたら恨まれます。
でも実際には子供が好きで、言われているほどの極悪人ではなかったようです。
史実の万貴妃はどんな人物だったのか紹介します。
万貴妃の史実
いつの時代の人?
生年月日:1430年
没年月日:1487年
姓 :万(ばん)
名称:貞児(ていじ)
国:明
地位:宮女→答應→貴妃→皇貴妃
称号:恭粛端慎栄靖皇貴妃、恭粛貴妃
父:万貴
母:王夫人
夫:成化帝 朱見深
子供:皇長子
彼女は成化帝の保姆(ほぼ:世話係)で側室です
日本では室町時代になります。
おいたち
本名は万貞児(ばん・ていじ)
生年は宣徳3年(1430年)
万貞児の父・万貴(ばん・き)は地方の役人でした。
宣徳年間、万貴は罪を働き順天府に送られます。
当時4歳だった万貞児は宮中に入れられ孫太后の侍女になりました。万貞児は頭がよかったので孫太后から気に入られていたようです。
朱見深の保姆(世話係)になる
正統14年(1449年)。土木の変で正統帝がオイラトの捕虜になりました。
正統帝の息子・朱見深(しゅ・けんしん)は2歳で皇太子になりました。
孫皇太后は万貞児を朱見深の保姆(ほぼ・世話係)に任命。万貞児は朱見深の専属の養育係になりました。17歳歳上の万貞児はとてもよく気がきいて朱見深が望んでいることがよくわかりました。
しばらくすると朱見深の叔父の景泰帝が即位。朱見深は皇太子のままにする約束でしたが。景泰3年(1452)。景泰帝は自分の息子・朱見済(しゅ・けんせい)を皇太子にしました。
朱見深は廃されて宮殿を追い出され屋敷に軟禁されました。
万貞児は朱見深とともに暮らし彼を献身的に支えました。5歳の朱見深は両親と引き離されて軟禁状態になったので万貞児(22歳)が頼りでした。
朱見深は10歳になるまで万貞児と暮らします。
人格形成の重要な時期に親と離され臣下からも見放され、世話をする侍女と何年も軟禁状態で暮らしていたら。朱見深が万貞児に依存する男に育つのは当然でしょう。
景泰8年(1457)。宮中でクーデター(奪門の変)が起きて景泰帝が退位。父の天順帝(英宗)が再び即位しました。
朱見深(10歳)は開放され、万貞児(27歳)とともに宮殿に戻りました。朱見深は再び皇太子になりました。
天順6年(1462年)。孫太后が死去。
万貞児は皇太子・朱見深の侍女になる
万貞児は東宮殿の侍女として朱見深に仕えます。
万貞児は32歳でしたが見た目には20代のようでした。朱見深は15歳。二人は密かに関係を持ちました。
ところが朱見深と万貞児の関係を知った天順帝(英宗)は、年上の宮女が若い皇子を誘惑したと非難。万貞児は百叩きの刑になりました。
天順帝は12人の正室側室候補のリストを作りその中から朱見深の妾を選ぶように言いいました。
でも朱見深と万貞児の関係は続きます。
天順8年(1464年)。天順帝が死去。朱見深(成化帝)が即位しました。
成化帝の時代
成化帝は万貞児を皇后にしたかったのですが、万貞児は17歳歳上で身分が低かったので皇后になれませんでした。
周太后(成化帝の生母)と銭太后(天順帝の正室)はあらかじめ天順帝が作っていたリストの中から呉皇后を選びました。
でも呉皇后は成化帝に相手にされません。呉皇后は自分が寵愛されないのは万貞児のせいだと思い、万貞児を呼び出して立ち上がれなくなるほど杖で打ちました。それを知った成化帝は激怒して呉皇后を叱りつけて処罰しようとしました。万貞児が止めに入りましたが、万貞児の傷を見た成化帝は怒りがおさまりません。
成化帝は皇太后に「呉皇后を廃する」と言いました。銭太后は黙っていましたが、実母の周太后は「迎えて1ヶ月の皇后を廃せば世間の笑いものです」と止めさせようとします。でも成化帝の意志は変わらず呉皇后は廃されました。
2ヶ月後。周太后は王氏を皇后に、柏氏を側室にしました。王氏は大人しくて気が弱く争いが嫌いな性格です。成化帝が万貞児を寵愛するのをわかっているので、傀儡の皇后にするならそれでもいいと思ったのです。
万貞児が皇子を出産
成化2年3月(1466年)。万貞児は男子を出産。36歳なので当時としては高齢出産です。成化帝は大喜びしました。万貞児は「貴妃」になりました。同じ日に柏氏が賢妃になりました。
万貴妃の父・万貴が錦衣衛 正千戸(隊長)になりました。
11月。ところが長男は1歳になる前に亡くなってしまい、成化帝も万貴妃もショックを受けてしまいます。
その後、数年間は子供は誕生せず。宮中の者たちも心配していました。成化帝は早く跡継ぎを作るように周囲から言われ。臣下たちは「妾(万貴妃)が嫉妬しているからだ」と噂しあいました。
皇子の世話がしたい
他の側室の生んだ子を可愛がる
成化5年(1469年)。柏賢妃が朱祐極を出産。
このころ万貴妃は39歳。人生50年の時代の39歳ですから、成化帝もさすがに万貴妃に子を期待するのは酷だと考えたのか他の女性と子作りするようになります。
成化帝は宮女の紀氏に手を出して
成化6年(1470年)。紀氏が朱祐樘(後の弘治帝)を出産。
その後も成化帝には何人もの子供が生まれ、成化帝は皇子14人、公主4人の子沢山な皇帝になりました。これでは万貴妃が他の側室を堕胎させていたとはいえません。
「明史后妃伝」では紀氏は万貴妃を恐れ、誕生した朱祐樘は密かに育てられた。とされます。
ところが「明史商輅伝」には大臣の商輅の言葉として全く違うことが書かれています。
商輅「皇子は万貴妃に育てられています。非常な可愛がりようです。でも皇子の母は病で久しく会っていません。皇子が生母の紀妃に会えるようにしてください」と進言しています。
生母の紀妃は病気のために子育てができず、かわりに万貴妃が育てていたようです。でも紀妃の病が重すぎるのか、万貴妃が手放さないのかはわかりませんが。紀妃は自分の子供になかなか会えないと大臣が訴えています。
「名臣經濟録」にも似たような内容が書かれていて。大臣の意見を聞いて成化帝が母と子が共に暮らせるように命令を出しました。
でもあいかわらず万貴妃は朱祐樘の世話をしたがり朝夕に会いに来ていました。
成化11年6月(1475年)。紀妃が死亡。
万貴妃が殺害した。紀妃が自殺した。などの話があります。紀妃は病気だったので病死の可能性もあります。
紀妃の死後。朱祐樘は周太后が育てることになりました。
周太后は万貴妃を警戒して「万貴妃の作ったものは皇子に飲ませるな」と命令しました。万貴妃が朱祐樘を毒殺すると思ったのでしょう。
子のいない万貴妃はむしろ皇子を自分で育てたがっています。毒殺するはずはありません。周太后は万貴妃が大嫌いですから万貴妃に悪意があると思いこんでいるのです。
オウムをプレゼントしたら殺される
朝鮮の使節が明で聞いた話が「朝鮮成宗実録」に書かれています。
朝鮮成宗は在位1469~95年です。
万貴妃は皇太子・朱祐樘と親しくしたいと思い、皇太子にオウムを贈りました。オウムは「皇太子千万歳」と喋りました。すると皇太子は「こやつは妖怪だ」と驚いてオウムを斬り殺しました。
朱祐樘は5歳で実母を亡くして周太后のところに来ていました。まだ幼い朱祐樘はオウムが人の言葉を喋る鳥だと理解できなかったのです。
ところがこのエピソードは後に「万貴妃が皇子にオウムを贈り、皇子を侮辱する言葉を言わせた。だから皇子はオウムを殺した」と脚色されました。
万貴妃の失敗談が悪意と受け止められることもあるのです。
年老いても成化帝の寵愛は衰えない
紀氏が朱祐樘を出産するまで成化帝の正室や妃クラスの側室は呉廃后、王皇后、万貴妃、柏賢妃でした。万貴妃以外は親の決めた人です。成化帝が選んだのは万貴妃だけでした。かなり万貴妃を愛していたようです。
万貴妃が40歳ころから、成化帝は多くの側室を迎えて子供を生ませています。
でも万貴妃が歳をとっても成化帝の寵愛は衰えません。
「朝鮮成宗実録」には明から戻った朝貢使節が王(朝鮮成宗)に明の様子を報告する場面があります。
使節「万氏の寵愛は相変わらずです」
成宗「なぜだ?皇帝はうんざりしないのか?」
使節「私にはわかりません。皆がそう言ってます」
朝鮮成宗は女癖の悪さで知られます。女好きの王にとって皇帝が50歳近い側室を愛し続けるのは理解できなかったのかもしれません。
成化帝と万貴妃の関係は他人が理解できないところまできていたようです。
成化11年(1475年)。万貴妃の父・万貴が死亡。
成化12年(1476年)10月。万貞児は「皇貴妃」になりました。同じ日に、邵氏が宸妃、王氏が順妃、梁氏が和妃、王氏が昭妃になっています。
このときの冊封使の正使が蔣琬、副使が万安でした。
贈り物が集まる
万皇貴妃は珍しい品物が大好きで貪欲に集めました。様々な人達が万皇貴妃に取り入ろうと贈り物をします。賄賂は受け取っていたようですね。
万貴妃はただの側室ではなく、成化帝の育ての親です。
成化帝に対しては実の母や皇后よりも影響力があります。そのため成化帝に取り入ろうとするする者はまず万貴妃に気に入ろうとします。賄賂も集まりやすかったようです。
親兄弟たちが出世
万貴妃の父・万貴は錦衣衛 正千戸(隊長)になっていて。世襲できる権利をもらっていました。
万貴妃には万通(ばん・つう)、万喜(ばん・き)、万達(ばん・たつ)3人の兄弟がいました。
3人の弟たちも父のあとを継いで錦衣衛の隊長になったり、錦衣衛の役職をもらってます。
一族の万安は重臣になりました。
万貴妃の親兄弟は皆、都督、都指揮、千百戸などの官職につき、様々な褒美や領地を与えられました。成化帝は万貴妃だけでなくその一族まで出世させたのです。
中国王朝では誰かが寵愛をうけると親族が出世するのはよくあることです。
万貴妃の最期
成化23(1469年)1月。万貴妃が突然の病気で死去。享年59歳。
「明実録・万貴妃伝」では
成化帝は万貴妃の死を知って震え、7日間喪に服し。
「恭粛端慎栄靖皇貴妃」の諡を与え 天壽山の西南に埋葬しました。
「明史・后妃列伝」ではさらに詳しく
成化帝は泣き叫び7日間仕事を休み。
「貞児はもうこの世にいない。私の命ももう尽きるのだ」と言って悲しみました。万貴妃の葬儀は皇后の格式で行われ天寿山に葬られました。
と書かれています。
その年の8月。成化帝も死去。享年42
成化帝も天寿山に「茂陵」が作られそこに葬られました。
万貴妃は天寿山の万皇貴妃墓に葬られています。明朝では天寿山の墓地に皇帝と合葬されるのは皇后の称号をもつ人だけ。万貴妃は合葬はされていません。でも専用の墓が作られました。天寿山に自分専用の墓を持つ側室は非常に珍しいです。他の側室とは待遇が違うようです。
弘治帝の時代
弘治帝の即位後。万貴妃の家族を処刑するように進言する者がいました。でも弘治帝は却下しました。万貴妃を嫌う人は多かったようです。
でも弘治帝の生母・紀妃を万貴妃が殺したのが本当なら。弘治帝が許すはずありません。天寿山の万貴妃の墓を暴いて遺体を引きずり出して壊し、捨ててしてしまうはずです。
儒教の国で皇帝が親の仇を討たないなんてことが許されるはずがありません。でもそうしなかったのは万貴妃は紀妃を殺していない。少なくとも弘治帝は万貴妃には罪はないと思っていたのです。
悪女説はどこまで本当なの?
万貴妃は悪女とされています。
日本語版wikipediaも万貴妃の悪女伝説を事実であるかのように書いています。
ところが万貴妃の話は意図的に歪められていたり、誇張されたり、偶然を意図な悪意と解釈したり。万貴妃を嫌う人たちが意図的に歪めているようです。「明史」は中国の歴史書でも比較的、公正で完成度が高いといわれていますが。それでもこのような記事があります。
つまり中国の歴史書はその程度のもの。日本人が思うほど正確ではありません。
万貴妃が何人もの側室を堕胎しているのを周りの人が知っているなら万貴妃を嫌いな周太后が黙っているはずがありませんし。成化帝も自分の子を何人も殺されて黙っていられるはずもありません。
「明史」を読んだ乾隆帝も「万貴妃の記載は 野史(世間の噂話)が元になっており、不合理だ」と言っています。
明朝時代にはすでに万貴妃の敵対勢力によって悪い噂が広められ。歴史家がその噂話を歴史書に載せてしまったようです。
万貴妃も嫉妬深かったり賄賂を受け取ったり一族が異常に出世してます。模範的で善良な人とはいえません。だからといって側室を何人も奪胎させるとか、皇子を暗殺しようとした。というのは脚色されすぎているようです。
テレビドラマ
王の後宮 2013年、中国 演:楊怡
成化十四年 2020年、中国 演:賈靜雯
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