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普王 李存勗・沙陀軍団を躍進させた暴れ者

五代十国 9 その他の国や民族

李存勗(り・そんきょく)は五代十国時代の武将。

突厥沙陀系の民族出身。祖父が唐から国姓「李」をもらったので代々李姓を名乗っています。

父の李克用は唐に仕え「普王」の爵位をもらっていました。朱全忠と激しく争った人物。朱全忠は唐を滅ぼして後梁を建国しました。そのため李克用と李存勗たちは朱全忠に激しい敵対心をもっていました。

李克用の死後は李存勗が沙陀軍団を率いました。

契丹と後梁に挟まれて苦しい出発になりましたが。李存勗は父以上の戦上手でした。

このあと沙陀軍団は大きく領土を広げていきます。

史実の李存勗はどんな人物だったのか紹介します。

 

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李存勗の史実

いつの時代の人?

生年月日:885年12月2日
没年月日:926年5月15日
享年:42歳

本姓:朱邪(しゅや)
姓 :李(り)
名称:存勗(そんきょく)
民族:沙陀突厥

国:唐(後唐)
地位:普王→皇帝
廟号:荘宗

父:李克用(り・こくよう)
母:曹氏(貞簡皇后)
妻:神閔敬皇后 劉氏

子供:魏王 李継岌、守王李継潼 、光王李継嵩 、真王李継嶦 、川王 李継嶢、義寧公主

彼は唐末期から五代十国初期の人物。
同時代の人物には契丹の耶律阿保機、後梁の朱全忠がいます。

日本では平安時代になります。

沙陀(さだ)軍団

突厥沙陀部の出身。沙陀部は突厥帝国を構成した部族でした。突厥帝国滅亡後、沙陀部は唐に服属。遊牧生活を捨て漢化して武装勢力になりました。

沙陀軍団は乱暴者の傭兵の集まりでした。滅茶苦茶に人を殺し過剰な略奪をしました。

この時代、敵地での略奪はどの勢力も行なっていますが。沙陀は領内でも民衆から略奪を行います。もともとはよそ者だからです。そのため周囲の人々や他の部隊、朝廷からも嫌われていました。

そんな傭兵家業者の多い沙陀の中でも李存勗の一族は出世頭です。でも李克用は彼らのご機嫌をとるために罰したりはしません。部下たちは略奪しほうだいでした。

李存勗の祖父の代までは突厥姓の 朱邪(しゅや)を名乗っていました。祖父の朱邪赤心が反乱鎮圧で手柄を立てて唐の皇帝から国姓の「李」を与えられました。以後、一族は「李」姓を名乗っています。

 

「普」が李克用の勢力(沙陀)

五代十国

五代十国

 

おいたち

885年12月2日。李存勗は山西応県で生まれました。

父は李克用。唐末期に活躍した沙陀軍閥の首領。唐から河東節度使に任命されていました。

母は曹氏。李克用の正室です。

李存勗は長男でした。

11歳のとき、父・李克用とともに長安に行き唐の昭宗皇帝に会って褒賞を受けて賞賛されました。このとき李克用は昭宗から「普王」に任命されています。

李存勗は立派な容姿を持ち、春秋戦国時代の書物を研究。戦いでも勇敢で戦略的戦術に長けていました。また音楽や歌、踊り、芝居も好きで。芸能好きは周囲にも知られていました。

李克用と朱全忠の対立

李克用は唐に使える勇猛な武将。自身は片目が不自由なことから「独眼龍」とあだ名されていました。

彼の部隊は黒い鎧を着ていたので「鴉軍(あぐん)、鴉=カラス」と呼ばれていました。李克用は突厥譲りの騎馬軍団を率いています。黒ずくめの騎馬軍団を見ると逃げ出す者もいました。

ところが李克用は戦場では強くても政治的駆け引きは下手。朝廷での権力争いはライバルの朱全忠に敗北。領地に逃げ帰り力を蓄えていました。

907年。朱全忠が後梁を建国。唐が滅亡。

李克用はライバルの朱全忠が唐の皇帝を廃して自分が皇帝を名乗るが悔しくてたまりません。でも李克用は病気で倒れもう戦うことはできませんでした。

 

沙陀軍団のリーダーになる

三本の矢の遺言

開平2年(908年)1月。父・李克用が病死。

臨終の間際。李克用は李存勗に3本の矢を渡してこう言いました。「一本の矢で幽州の劉仁恭を討て。もう1本は契丹の耶律阿保機を討て。最後の1本は朱全忠を滅ぼせ」

李克用は3本の矢を父の墓に埋葬しました。

李存勗は父のあとを継いで晋陽で「晋王」に即位しました。このとき24歳。

いきなり後梁が襲ってくる

開平2年(908年)1月。後梁の皇帝・朱全忠は宿敵・李克用が死んだと知ると早速行動を起こしました。

普の最前線にある潞州が後梁に襲撃されました。李存勗はいきなりピンチに立たされました。

謀反を鎮圧

しかし軍団内でも問題が起きていました。

李克用の仮子・李存顥と李存實は李存勗より歳上で李存勗が後を継いだのが不満でした。そこで軍事に力を持っていた李克寧と協力して李存勗を倒そうと計画しました。

李克用にはたくさんの仮子や義子がいました。仮子は養子とちがい相続権がないのが一般的です。戦闘が得意な若者をみつけると自分の養子にして忠誠心の高い部下を増やしたのです。仮子・義子は軍閥では当たり前のように行われていました。

でも実子だからという理由で李克用のあとを李存勗がついだのが不満な仮子はいました。

李克寧は李存勗の叔父で軍団内でも力を持っています。李克寧も李存勗が沙陀軍団の新しい王になるのは不満でした。

李存勗は側近の張承業、李存璋たちとともに先に動いて彼らを捕らえ処刑しました。

他にも命令を聞かないものは容赦なく粛清しました。李克用の時代までは傭兵の集まりだった沙陀軍団も組織的な動きができるようになりました。

 

契丹と同盟

李存勗は父が死んですぐに契丹の耶律阿保機に同盟の要請をしました。

かつて李克用と耶律阿保機は同盟を結んだことがあります。でも耶律阿保機は朱全忠にも味方して誰の味方なのかわからなくなっていました。

耶律阿保機は907年に契丹可汗(キタイ・カガン=皇帝)になりました。契丹の全兵力を動かせるのです。

あとを継いだばかりの李存勗は耶律阿保機とは戦いたくありません。

耶律阿保機に父の李克用が死んだ事を伝え、贈り物をして「後梁の朱全忠と戦って潞州を救って欲しい」と懇願。なんと耶律阿保機は同盟を認めました。

これ以降。室韋、タングート、奚、契丹の遊牧民の中からも沙陀に合流する者がでてきます。耶律阿保機は彼らが出ていくのをとくに止めたりはしてなかったようです。

沙陀にも騎馬隊はあります。李存勗も騎馬隊を指揮しています。でも沙陀の戦力の多くは歩兵でした。契丹の騎馬軍団と比べると明らかに騎馬の数が少ないです。

勇猛な沙陀兵に加え、遊牧民の強力な騎馬軍団が加入して李存勗の軍は更に強くなりました。

 

後梁・朱全忠の襲撃

潞州の戦い

開平2年(908年)3月。潞州では沙陀の周徳威(しゅう・とくい)が粘っていました。しかしついに後梁皇帝・朱全忠が自ら潞州に出陣してきました。李存勗は包囲される前に周徳威を一旦撤退させました。

朱全忠は沙陀の抵抗はなくなったと思ってあとは配下に任せて洛陽に帰りました。

5月。朱全忠がいなくなると李存勗は軍を率いて霧の中を敵軍に突撃。油断していた後梁軍は壊滅。大量の武器や食糧、捕虜も獲得しました。こうして李存勗は潞州を守り切りました。

後梁軍の敗北を聞いた朱全忠は「子をなすならこのような子であるべきだ。李克用の家は滅びないだろう。それに比べて我が家の子らは豚や犬ばかりだ」と嘆いたといいます。

柏郷の戦い

鎮州の成徳節度使 趙王 王鎔(おう・ゆう)、定州の義武節度使 北平王 王処直(おう・しょちょく)は後梁の朱全忠に服従していましたが、朱全忠は彼らを信用していませんでした。

天祐7年(910年)。朱全忠は深州、冀州を攻撃。王鎔と王処直は以前から交流のあった普王 李存勗に助けを求めてきました。彼らは李存勗を盟主にして同盟を結びたいというのです。

李存勗はその話を聞いたとき、最初は後梁の策略かと思いました。でも彼らを味方に出来れば後梁を倒すことができるかもしれないと思い援軍を出すことにしました。

李存勗は沙陀軍団を率いて野河(現在の滏陽河支流)に向かい、河の反対側に陣取る後梁軍と向かい合いました。

天祐8年(911年)1月。李存勗は梁軍を挑発しておびき出した後、騎馬隊を突撃させて梁軍を撃破、梁の武将285人を捕らえ、2万人を討ち取りました。

この戦いで梁軍の龍驤、神威、神捷等精鋭部隊が壊滅。

2度の大敗北で後梁は消耗。あとは衰退にむかいます。

燕を滅亡させる

とりあえず後梁の驚異はひとまずはおちつくと。幽州の劉仁恭に狙いを定めました。このころ燕王 劉仁恭は息子の劉守光に権力を奪われ幽閉されていました。

李存勗は他の節度使とともに燕王 劉守光に使者を送って「尚父」ともちあげました。

天祐8年(911年)8月。気を良くした劉守光は劉仁恭は自ら「皇帝」を名乗り「大燕」の建国を宣言。ただし他にも大燕という国があるので歴史上は「桀燕(けつえん)」と言います。

天祐8年(911年)12月。李存勗は挙兵して桀燕の涿州を占領。大燕の本拠地、幽州を攻めました。

劉仁恭は後梁の朱全忠に助けを求めました。朱全忠は自ら軍を率いて燕の救援に向かいましたが。李存勗の沙陀軍に敗北。朱全忠は落胆して洛陽に戻り病気になりました。

乾化3年(913年)。後梁の朱全忠が息子の朱友貞に殺害されました。朱友貞は朱友珪を殺害、皇帝を名乗りますがそれに皇族たちが反発、後梁は内乱状態になりました。

李存勗はそのすきに順州(北京市順義)を攻め落としました。さらに後梁の檀州(北京市密雲)、武州(河北省宣化)、平州(河北省盧龍)、営州(遼寧省朝陽)も占領。一気に領土を拡大します。

11月。桀燕の本拠地幽州を攻め落とし、皇帝の劉守光と幽閉されていた劉仁恭を捕らえました。

天祐11年(914年)。李存勗は本拠地の大原に戻ると劉守光と劉仁恭を処刑しました。桀燕は滅亡しました。

魏州の戦い

天祐12年(915年)。後梁皇帝・朱友貞は藩鎮勢力を弱めるため、魏博鎮を二つに分割しようとしました。それに現地の勢力が反乱を起こしました。

天祐13年(916年)。李存勗は後梁の混乱につけこんで魏州(河北省大梅)を占領。

その後は、滑州(河南滑縣)衛州(河南衛輝)、洛州(永年東南)、相州(河南安陽)、邢州(河北邢台)、滄州、貝州(河北清河西)等を占領しました。

普と後梁の立場は完全に逆転しました。

契丹との戦い

天祐14年(917年)。壽州刺史の盧文進が李存勗の弟・李存矩を殺害。契丹に投降しました。李存勗はもともと横暴で、使い捨てにされるのを嫌った部下たちが盧文進を担いで反乱を起こしたのです。李存勗は契丹に盧文進の引き渡しを要求しましたが契丹皇帝 耶律阿保機は拒否。

盧文進の先導で契丹皇帝 耶律阿保機が大軍を率いて幽州に攻めてきました。50万と言いふらしましたが敵を脅すためのハッタリです。実際にはもっと少ない数でした。中国史の○○万という数はあてになりません。

それでも完全武装の騎兵が数万もいれば恐ろしく脅威です。李存勗は周徳威に3万の兵を与えて迎え撃たせました。しかし沙陀軍は敗北。周徳威は幽州で籠城しました。

耶律阿保機は幽州を包囲。しかし沙陀軍も籠城して持ちこたえました。籠城が長引き夏になりました。耶律阿保機は1年近く本拠地を留守にしていたので指揮をいとこの耶律曷魯にに任せて退却。

李存勗は李存蕃と李嗣源に7万の兵をもたせて幽州の救援に向かわせました。煙幕を使った作戦で契丹軍を混乱させ歩兵隊を突撃させ。パニックになった契丹軍は武器を捨てて逃げ去りました。

李存蕃と李嗣源は幽州に入り周徳威と合流。幽州を守り切ることができました。

こうしていよいよ宿敵・朱全忠の後梁との対決になります。

続きはこちら。
・後唐 荘宗 李存勗・後梁を滅亡させた沙陀の皇帝

 

テレビドラマ

狼殿下 2020年、中国 演:石凉 役名:溍国王 李存勖。
 劇中の煬国が後梁。節度使の王氏が劇中の馬家軍。

 

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