愛新覚羅 胤祥(いんしょう)は清朝の第4代皇帝・康熙帝の第十三皇子。
十三阿哥とも書きます。ドラマでは十三弟と表示されることもあります。
異母兄の第四皇子 胤禛(いんしん)を助け。胤禛が皇帝になったあとも大臣の一人になって皇帝を支えました。
雍正帝の時代には何人かの兄弟が地位を失いました。
でも胤祥は粛清されることなく生き延びました。
雍正帝からは怡(い)親王の位を与えられ頼りにされていた皇族です。
怡親王・胤祥はどのような人物だったのか紹介します。
怡親王 愛新覚羅 胤祥の史実
プロフィール
名:胤祥(いんしょう、満洲語:インシャン)
称号:怡親王
地位:鉄帽子王
生年月日:1686年11月16日(康熙25年10月1日)
没年月日:1730年6月18日(雍正8年5月4日)
享年:45(数え歳)
日本や中国では「愛新覚羅胤祥」と姓と名を続けて書くことが多いですが。当時の満洲人の習慣では一般的には姓を書くことはあまりありません。「胤祥」と書くのが普通でした。
家族
胤祥が生きたのは清王朝の第4代皇帝・康煕帝から5代・雍正帝の時代です。
日本では江戸時代になります。
怡親王 愛新覚羅 胤祥の生涯
おいたち
1686年(康煕25年)11月16日。
父は康煕帝。
母は側室の章佳氏
康熙帝の十三男です。
清朝では「十三阿哥」とも呼ばれました。阿哥(アグ)は満洲語で王子・息子の意味。清朝では「皇子」の意味で使われました。
1687年(康煕26年)。同母妹の 第13皇女・和碩温恪公主が誕生。
1691年(康煕30年)。第15皇女・和碩敦恪公主が誕生。
1699年(康煕38年)。母・章佳氏が死亡。章佳氏には死後「敏妃」の称号が与えられました。
生母・章佳氏の死後。徳妃・烏雅(ウヤ)氏に育てられました。
徳妃は第四皇子・胤禛(いんしん)の生母です。
そのため、胤祥は子供の頃から胤禛に従っていました。
成人した胤祥は駐京禁軍(近衛兵)に配属されました。
宮殿を守る軍の指揮権をもつことになります。
康熙帝の晩年には後継者を巡って王子たちの争いが起こりました。
詳しくはこちらをどうぞ。
・康熙帝の皇子たちの激しい後継者争い「九王奪嫡」
この争いで胤祥は一緒に育った胤禛を助けました。この争いの中で胤祥がもつ近衛兵の指揮権は胤禛にとっても大きな助けになりました。
1722年(康煕61年)。康煕帝が死去。第四皇子・胤禛が皇帝(雍正帝)になりました。
雍正帝の時代
名前を 允祥(いんしょう)に改めました。
中華王朝では「皇帝の本名と同じ漢字は使わない」という慣習があります。雍正帝は即位後に兄弟たちに「胤」の使用を字を使ってはいけないと命令しました。
当時、生きていた兄弟は「胤」を「允」に変えています。
雍正帝から和碩怡親王(わせきいしんのう)の地位を与えられました。「親王」は皇族に与えられる最高の位です。
四人の総理事務大臣の一人に任命されました。清朝でもっとも地位の高い大臣の一人です。
允祥が任されたのは管理三庫大臣です。
国の財政を管理する財務大臣のようなものです。任期は3年です。国の財政を担当する戸部の総裁として汚職のとりしまりを強化しました。中国の王朝ではもともと汚職は多いのですが、康煕帝時代の晩年には戸部は温床になっていました。それに気がついた雍正帝は戸部の立て直しを允祥に任せたのです。允祥は汚職を減らすことに成功。允祥の働きに雍正帝は満足しました。
雍正帝は感慨深げに大臣たちにこのように言ったことがあります。
「朕はお前たちを信用して役目を与えているが、怡親王への信頼は百千人の大臣に勝る」
「怡親王は康熙帝の時代から謙虚で誠実な人物だった。一族の質素さも国民はよく知っている」
それほど頼りにしていました。
康煕帝の葬儀や雍正元年に死去した孝恭仁皇后 烏雅氏の葬儀を担当しました。
1725年(雍正3年)。大臣の任期を終えると新しい役職が与えられ加議政大臣、理営田水利、領圓明園的八旗禁軍、弁理胤禛藩邸、霊廟の管理、軍需物資の準備の仕事を担当。これらの仕事には一時的なものもありますが。多くの仕事が割り当てられました。
その後も允祥の働きは雍正帝から高く評価され、加増されたり感謝状が贈られました。
また允祥の息子の一人も郡王に推薦されましたが、允祥は断りました。
1730年(雍正8年)。允祥が病気になると雍正帝はお見舞いに行きました。
しかしその年、允祥は病死します。雍正帝は非常に嘆き悲しんで3日間仕事を休んで喪に服しました。
そして雍正帝はこのような言葉を残しています。
「允祥は逝ってしまった、私は悲しみの中心にいる。食べたり飲んだりしても味がない。眠ることもできない。允祥とともに生きたこの8年が私には1日のようだ。古来よりこれほど徳と思いやりがある王はいなかった」と言いました。
そして名前を「允祥」から「胤祥」に戻しました。もともと雍正帝の兄弟には「胤」の文字が使われていましたが、雍正帝即位後は使えなくなっていました。雍正帝の兄弟で「胤」の使用が許可されたのは「胤祥」だけです。
雍正帝と胤祥は兄弟でしたが、他の兄弟たちと違って胤祥は胤禛と張り合おうとせず弟分に徹していました。その関係は皇帝と臣下の関係になっても代わりません。皇子時代よりもさらに忠実な臣下になったといえます。
中国王朝の長い歴史の中でもこれほど絆が深い皇帝と臣下は珍しいです。
鉄帽子王に任命
死後。胤祥の子孫は「鉄帽子王」の特権を与えられます。
清朝では「親王」などの肩書はそのままでは子に継承できません。子は親の1ランク下の肩書が与えられます。
でも「鉄帽子王」に任命されると子は降格なしで親の肩書を名乗ることができます。世襲制の肩書なのです。
「怡親王」は清朝で12あった「鉄帽子王」の一人でした。
「怡親王」は初代・胤祥から始まり清朝の終わりまで続きました。
胤祥の子孫たちは代々「怡親王」を名乗ることができました。
雍正帝がどれほど胤祥を頼りにしていたかがわかります。
テレビドラマの胤祥
宮 パレス 〜時をかける宮女〜 2010年、中国 演:田振崴
宮廷女官 若曦 2011年、中国 演:袁弘
宮廷の茗薇 〜時をかける恋 2019年、中国 演:王安宇(ワン・アンユー)
「九王奪嫡」を扱ったドラマは多いです。でも中心になるのは四皇子 胤禛やライバルの八皇子 胤禩など。
十三皇子 胤祥は脇役が多いです。
「宮廷の茗薇」は珍しく十三皇子 胤祥がヒロインの相手役でした。
「瓔珞」に登場する 怡親王・弘曉 は胤祥 の息子です。
コメント
こんにちは。興味深く拝読いたしました。有難うございます。リクエストをさせていただいても差し支えないということなので、次の点が気になっていることを申し上げます。
清朝の拡大に際し、蒙古人が八旗に、また、漢人も八旗に加わりましたが、清朝が中国支配をするにあたり、彼らは、科挙の受験の母集団にどの程度、なったのでしょうか。科挙の受験は、一般の漢人(地主層だと思いますが)が中心かと推測しておりますが、八旗として、支配増になった人の集団からも科挙を受験して、挙人とかになり、地方の有力者となったり、地方の役人となったり、更に、高級官僚になった人もそれなりに居るのでしょうか。また、満人や蒙古人で、八旗の構成員までには至らないような、富裕層(上層)や、中間層や下層の人達も居たと思っております。
もしも、お時間があり、かつ、そこそこ関心を持たれましたら、そのようなことに触れるような記事が書いていただけると幸いです。
PineMattさん、こんにちは。
ご意見ありがとうございます。興味深いご指摘ですね。残念ながらその手の史料はもっていないので詳しくは分かりません。
今知っている範囲でお答えしますと。清朝にとって科挙は漢人世界(旧明朝の領域)を統治するための手段。科挙を受けるのは旧明朝領域で文官になりたい人、つまりほぼ漢人に限られます。八旗やモンゴル等の藩王支配地域では従来からの支配体制があるので科挙は必要ありません。中央政府は八旗出身者と科挙の上位合格者(3位まで)のみ。また清朝では満洲語とモンゴル語の科挙が存在しました。でも満洲人やモンゴル人は人事採用で優遇されていたので科挙を受けるメリットがあまりありません。それでも受験する人はいたようですがそれがどの位いたかは分かりません。時間があれば調べてみます。