耶律李胡(やりつ・りこ)は契丹(遼)の皇族。
初代皇帝 耶律阿保機(太祖)の三男です。
2代皇帝 耶律堯骨(太宗)の時代には皇太弟になり、首都の防衛を任されるなど兄から信頼されていました。
ところが耶律堯骨が遠征中に急死。遠征先で耶律兀欲(世宗)が即位。
李胡は勝手な即位に激怒した述律太后とともに挙兵しましたが、兵力では兀欲が勝り。述律太后と李胡は降伏。地方に移されました。
その後、李胡は息子・耶律喜隠の謀反に連座して処刑されました。
史実の耶律李胡はどんな人物だったのか紹介します。
耶律李胡の史実
いつの時代の人?
生年月日:911年
没年月日:960年
姓 :耶律(やりつ)
名称:李胡(りこ)
漢名:劉洪古(りゅう・こうこ)
字:奚隠
国:契丹(遼)
地位:天下兵馬大元帥
称号:章肅皇帝(追尊)
父:遼太祖 耶律阿保機(やりつ・あぼき)
母:淳欽述律皇后(じゅんきんじゅつりつ こうごう)
妻:和敬皇后(追尊)
子:
耶律喜隠(宋王)
耶律宛(衛王)
彼は遼の初代 太祖 耶律阿保機~5代 景宗の時代に生きた人物です
日本では平安時代になります。
おいたち
太祖5年(911年) 耶律李胡が誕生。
父は遼の初代皇帝 太祖 耶律阿保機。
母は淳欽述律皇后。
耶律李胡は三男です。
同母兄に皇太子で東丹王の耶律突欲(899年生)、耶律堯骨(902年生、後の太宗)がいます。
若い頃の李胡は力持ちで勇敢だったといますが、乱暴で些細な事で人を罰することがありました。
父の阿保機は「突欲は思慮深く、堯骨は要領がよい、李胡は兄たちには遠く及ばない」と語ったことがあります。でも母の述律皇后は末っ子の李胡を最もかわいがったといいます。出来の悪い子ほど可愛いということでしょうか。
天顕元年(926年)。父 阿保機が死去。次の皇帝が即位するまでの間、母の述律皇后が皇帝代理になって国事を行いました。
述律皇后は皇太子の突欲ではなく、次男で大元帥の堯骨を後継者にしました。述律皇后と突欲はあまり仲がよくありません。突欲は戦で負けたり統治を任されている渤海で反乱が起きたりして評判を落としています。それに対して対して堯骨は母には素直な子で、大元帥としても功績を残していたからです。
当時15歳の李胡は候補にもなりませんでした。
太宗 堯骨の時代
天顕2年(927年)。次兄の堯骨が即位、2代皇帝 太宗になりました。
天顕4年(929年)10月29日。太宗 堯骨は 李胡にまだ降伏していない雲中の地域を降伏させるため。軍を率いて出陣するように命令を受けました。11月2日。太宗 堯骨に見送られて李胡は出陣しました。
天顕5年(930年)1月。李胡は寰州を攻めて陥落させ。2月9日。李胡は多くの捕虜をつれて雲中から戻り凱旋。太宗 堯骨に謁見しました。
3月11日。当時、子がいなかった太宗 堯骨は李胡を「皇太弟」にしました。さらに「天下兵馬大元帥」になりました。(ただし931年に堯骨の長男・述律(穆宗)が誕生)
太宗 堯骨が遠征するときは李胡が首都の留守を任されました。
会同9年(946年)太宗 堯骨は後普に遠征。
12月には後普の首都・開封を占領しました。
会同10年(947年)1月。太宗 堯骨は「開封」に入城。国号を中華風の「大遼」にしました。しかし堯骨の開封統治はうまくいかず占領してわずか3ヶ月で撤退することになります。
母・述律太后とともに世宗 兀欲と対立
ところが堯骨は撤退途中で「病死」。遠征軍の臣下たちは同行していた 耶律兀欲(世宗)をかついで皇帝にしました。兀欲は東丹王 突欲の息子です。
このころの堯骨は病気がちでしたが、死亡から兀欲即位までの経緯はよくわからない部分も多く。遠征軍によるクーデターともいわれます。
突然の堯骨の死と勝手な皇帝の擁立を知った述律太后は激怒。首都・上京で留守をしていた李胡を皇帝に擁立しました。
兀欲率いる遠征軍は契丹本土を目指して北上しました。
4月。述律太后は兀欲たちを「反乱軍」とみなし、李胡に兵を率いさせ「反乱軍」を討つように命令。李胡は兵を率いて出陣しました。しかし李胡軍は敗退。
すると68歳の述律太后は自ら軍を率いて出陣。李胡とともにシラ・ムレン川の付近で兀欲軍を待ち構えました。
李胡・述律太后軍と兀欲軍はシラ・ムレン川を挟んで睨み合いを続けました。しかし李胡・述律太后軍の兵力は兀欲軍の数には及びません。同族同士の戦いを避けたい耶律屋質たちが説得。述律太后と李胡は降伏しました。
でも述律太后は兀欲への恨みを忘れられません。李胡を皇帝にしようとしました。その企みは失敗。
述律太后と李胡は世宗 兀欲の命令で阿保機の陵墓がある祖州(内モンゴル巴林左旗)に移され自由に出入りすることを禁止されました。
応歴3年(953年)。母・述律太后が死去。
応歴10年(960年)。息子の宋王 耶律喜隠と孫の耶律留礼寿が謀反を計画して逮捕されました。
李胡は連座で逮捕されて処刑されました。享年50歳。
統和年間(983年-1012年) 聖宗 耶律文殊奴は李胡に「欽順皇帝」の称号を贈りました。
重熙21年(1050年)。興宗 耶律只骨により李胡に「真粛皇帝」、妻に「和敬皇后」の称号を贈りました。
聖宗も興宗も世宗の子孫です。それでも李胡に「皇帝」の諡を与えたのは気の毒に思うこともあったのでしょう。李胡は歴史書に書かれているほど悪い人物ではなかったのかもしれません。
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