太宗(イ・バンウォン)・朝鮮王朝の基礎を作った独裁者

2017年9月22日

太宗(イ・バンウォン)は李氏朝鮮の3代目国王。父・李成桂(イ・ソンゲ)を助けて高麗を倒し李氏朝鮮王朝の建国に成果をあげました。しかしその後、重臣、兄弟と対立。多くの者を処刑します。多くの犠牲を出して自らは3代目国王・太宗となりました。

史実の太宗(イ・バンウォン)はどんな人物だったのか紹介します。

 

太宗(イ・バンウォン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1367年6月13日
没年月日:1422年5月30日

在位期間: 1400年11月29日~1418年9月9日

名前:李芳遠(イ・バンウォン:り・ほうえん)
称号:太宗(テジョン:たいそう)
父:太祖
母:神懿王后
妻:元敬王后
  側室16人 
子供:
譲寧大君、孝寧大君、忠寧大君(世宗)
他、男子9人、女子17人

第3代朝鮮国王です。彼が生きたのは1367年~1422年。高麗末期から朝鮮王朝(李氏朝鮮)の初期の人物。

日本では室町時代になります。

スポンサードリンク

太宗(イ・バンウォン)のおいたち

元や高麗王朝の武官だった李成桂(イ・ソンゲ)の5男として生まれました。兄たちは父に従順でしたが、バンウォンは兄弟の中で最も野心がありました。

バンウォンは力強い武人のイメージがあるかもしれません。でも、武芸よりも学問に優れていたといわれます。

1383年。高麗王朝の科挙に合格。文官となりました。語学力に優れていたようです。1388年。使者として明に派遣されました。

高麗の禹王はイ・ソンゲに遼東征伐を命令しました。ソンゲは途中で命令を無視して撤退しました(威化島回軍)。バンウォンは文官だったのでソンゲの遠征には参加していません。ソンゲが王命を無視して撤退したと聞くと地方に身を隠したようです。バンウォンは父が戻ってくると合流しました。その後は父の革命に参加して禹王を退位させのちに恭譲王を即位させるのに協力しました。

鄭夢周(チョン・モンジュ)殺害

1392年。イ・ソンゲが落馬して休養に入りました。バンウォンも病気を理由に一時潜伏していました。継母の神徳王后の呼び出しに応じて開京(現在のケソン)の家に戻ってきました。

ソンゲとともに革命に参加した鄭夢周(チョン・モンジュ)はソンゲと対立するようになりました。新しい国を作りたいソンゲと、高麗王朝を残したまま改善したいチョン・モンジュは次第に意見が合わなくなったのです。チョン・モンジュはソンゲのいない間にソンゲに味方する勢力を追放し、急激な改革を中断させようとしました。

バンウォンはソンゲにモンジュを殺害するように進言しました。しかし説得して仲間にするように言われます。バンウォンはモンジュを家に招いて話をしました。話し合いの結果、バンウォンはモンジュを説得できないと判断します。バンウォンは趙英茂(チョ・ヨンム)とともにモンジュを殺害しました。

李氏朝鮮建国

1392年。イ・ソンゲは高麗王・恭譲王に無理やり攘夷させ王になりました。国名も高麗から朝鮮に変わりました。

父が王になったことでバンウォンは靖安君の称号を得ました。

第一次王子の乱

父ソンゲは八男の李芳碩を世子(後継者)にしました。ソンゲの長男はすでに病気で亡くなっていました。鄭道伝(チョン・ドジョン)ら重臣たちも李芳碩が世子になることに賛成していました。チョン・ドジョンは選ばれた有能な者が話し合って国を治めるのを目指していました。独裁的な強すぎる王は望んでなかったのです。

バンウォンは母の違う弟が後継者に選ばれたことに怒ります。また、バンウォンは鄭道伝(チョン・ドジョン)と政治的に対立していました。チョン・ドジョンは私兵を解体して国の軍隊に再編成しようとしていました。ソンゲは自分の兵が奪われることには反対でした。

1398年。バンウォンは他の兄弟とともに反乱を起こしました。チョン・ドジョンら重臣を殺害し、世子の李芳碩や同じ母の李芳蕃も殺害しました。

事件後、父・ソンゲは王位を退きました。

反乱を起こした首謀者はバンウォンでした。でも周囲の反発を警戒して王にはならず、次兄の李芳果(イ・バンカ)を王にしました。イ・バンカには正妻との間に子供はいなかったので都合が良かったのです。

イ・バンウォンが起こした反乱でしたが、朝鮮では「鄭道伝の乱」と言います。後にバンウォンが王になったので反乱を起こしたことにすると印象がよくないからです。

次兄バンカが2代目国王・定宗となり、バンウォンは丞相となりました。しかし実権はバンウォンが握っていたので定宗は形だけの王でした。

実権を握ったバンウォンは王の権力を高めるため、私兵の廃止を進めます。私兵の廃止はチョン・ドジョンが考えていたことです。でもドジョンが目指していたのは重臣の合議制で治める国でした。でもバンウォンが目指していたのは国王の権力を高めることでした。やってることは似ていても目的が違うのです。

第二次王子の乱

王族の私兵に廃止にバンウォンのすぐ上の兄・李芳幹(イ・バンガン)が反対しました。バンガンは第一次王子の乱で成果をあげたのに見返りが無いことを不満に思っていました。朴苞はバンウォンがバンガンの殺害を計画していると密告してきました。バンガンは開京に進軍。町の中で激しい戦いになりました。バンウォンはバンガンを鎮圧。バンガンを流刑にしました。密告した朴苞を処刑にしました。

朝鮮では「朴苞の乱」とも言います。

この戦いでバンウォンに抵抗できるものは誰もいなくなりました。定宗は身の危険を感じてバンウォンに譲位しました。

国王・太宗になった芳遠

1400年。バンウォンは即位。3代国王・太宗になります。

その後も親族、重臣関係なく抵抗する勢力や邪魔になりそうな者を処刑したり追放しました。朝鮮王朝建国に功績のあった者も排除されました。太宗は国王の権力を強めるため、邪魔になりそうな者は徹底的に排除しました。こうして1415年ごろには太宗に抵抗できるものはいなくなりました。

朝鮮王朝の基礎を作る

太宗は国内の制度を改めて国王の命令で国中を動かせるようにしました。太宗の時代。朝鮮は中央集権化が進んでいきます。王朝を維持するためには国王の権力を高める必要があると考えていたからです。

全国の寺から領地を没収、国の領地にしました。このため1413年には数百石の穀物が備蓄できるようになりました。

私兵を廃止。兵力は全て国王のものになりました。バンウォンは自分自身が私兵のおかげで権力を握ることができたため。王以外の者が私兵を持つ危険性をよく知っていました。

太宗が国王の権力を高めた結果、朝鮮王朝が安定した国になったといえるかもしれません。

 

日本とイ・バンウォンの意外な関係・己亥東征(応永の外寇)

あまり知られていませんが太宗(イ・バンウォン)は日本とも関りのある人物です。

1418年(太宗18年)。倭寇(日本の海賊)が朝鮮の海岸の村を襲撃しました。倭寇は明に遠征に向かう途中で朝鮮に立ち寄ったのです。庇仁と海州の沿岸が被害に会いました。

このころ国王は世宗に変わり、太宗は上王になりました。しかし軍事は死ぬまで太宗が握っていました。

太宗は倭寇は対馬から来たと考えました。そこで対馬に軍隊を送って倭寇退治をするか、明を襲って帰ってくる途中を攻撃するか検討した結果。本拠地の対馬を襲うことにしました。

当時、対馬を治めていたのは日本の守護大名・宗貞盛です。宗貞盛に対して「賊退治が目的なので、対馬を占領する意志はない」という内容の書状を送ったといいます。しかし、日本に伝わっていたかは定かではありません。太宗は対馬に1万7千の朝鮮軍を派遣しました。

1419年6月(世宗1年)。朝鮮軍は倭寇の本拠地となっていた対馬の尾崎浦に来ると倭寇と戦闘になりました。島の奥に逃げる倭寇を追って朝鮮軍は家を焼きながら進撃しました。

途中、攻撃の対象は倭寇の本拠地だけでなくなりました。朝鮮軍は対馬の奥深くまで攻め込み。対馬の大名・宗貞盛との戦いになりました。戦いは7月まで続きました。しかし大軍を送ったにもかかわらず対馬を守る少ない兵に苦戦。膠着状態になりました。

やがて台風シーズンが近づきます。宗貞盛は「元寇のときのようになるぞ」と朝鮮側に言って和睦をもちかけます。台風シーズンが近づいていつまでも対馬にいたくない朝鮮側。そして、早く対馬から出ていってもらいたい宗貞盛の思惑が一致。9月には和睦しました。

この戦いは朝鮮では「己亥東征」、日本では「応永の外寇」とよばれます。

ところで朝鮮を襲った倭寇の本隊はこのときには対馬にはいませんでした。朝鮮を襲ったあと遼東を攻めて明に撃退されていたのです。結果的に倭寇の活動はおとなしくなりました。

ドラマ「六龍が飛ぶ」最終回で太宗になったバンウォンが「対馬を火の海にする」と言っていたのはこのことです。

この戦いを韓国では「己亥東征」あるいは「第三次対馬征伐」。日本では「応永の外寇」と呼びます。

この第三次対馬征伐は世宗の時代になって行われたので世宗の功績として語られることもあります。

後継者問題

太宗は長男の譲寧大君を世子にしました。ところが譲寧大君が勉強をせずに遊んでばかりいました。

1418年。譲寧大君から世子の座を剥奪。三男の忠寧大君を世子にしました。その2ヶ月後、忠寧大君に攘夷して4代国王世宗が誕生しました。しかし、太宗は上王として実権を握り続けました。軍隊を動かす権限は死ぬまで渡しませんでした。軍事力を自分以外の者が持つことの恐ろしさをよく知っていたからなのでしょう。

1422年。病で亡くなります。享年55。

犠牲の上に朝鮮王朝の基礎を作った

ドラマのイ・バンウォンは恐い王様、独裁者のイメージがあります。実際にもかつての仲間や兄弟すらも殺害したり追放して権力を手にしました。

バンウォンは朝鮮王朝を長続きさせるために王に権力を集めなければいけないと考えていました。国の制度も高麗時代よりも中央の権力が強い仕組みにしました。朝鮮王朝が500年も続いたのはバンウォンが基礎を作ったからだという意見もあります。

権力欲の強い野心家と王朝を作った功労者、2つの顔があるのがイ・バンウォンなのかもしれませんね。

 

テレビドラマのイ・バンウォン

世宗大王 KBS 1973年、演: ナム・ソンオ
黄喜政丞 KBS 1976年、演: ナム・ソンウ
開国 KBS 1983年、演: イム・ヒョクチュ
朝鮮王朝五百年 太宗大王 MBC 1983年、演: イ・ジョンギル
朝鮮王朝五百年 根の深い木 MBC 1983年、演: イ・ジョンギル
龍の涙 KBS 1996、演: ユ・ドングン
大王世宗 KBS 2008年、演: キム・ヨンチョル
根の深い木 SBS 2011年、演: ペク・ユンシク
大風水 SBS 2012年、演: チェ・テジュン
鄭道伝  KBS 2014年、演: アン・ジェモ
イニョプの道 JTBC 2014年、演: アン・ネサン
六龍が飛ぶ SBS 2015年、演: ユ・アイン
チャン・ヨンシル  KBS 2016年、演: キム・ヨンチョル

 

イ・バンウォンは朝鮮でも有名な人物なので何度も映像化されています。でも意外と主人公になったことはあまりありません。歴史上は彼の業績は大きいのですが、ドラマの題材としてはふさわしくないということなのでしょうか。バンウォンを描くと身内を殺めてしまうシーンが何度か出来てしまうので主人公にしづらいという事情はあると思います。

朝鮮王朝の始まりを映像化したドラマではイ・ソンゲの息子。
世宗時代を描いたドラマでは世宗の父親として登場。
どうしても主人公をサポートしたり引き立て役にまわってしまって、バンウォンが中心的な存在になるドラマはあまりありませんでした。

「六龍が飛ぶ」では事実上の主人公として描かれています。ユ・アインが演じた若き日のイ・バンウォンが印象に残るという人も多いのではないでしょうか。

出典:楽天市場 DVD

PAGE TOP