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光海君(クァンヘグン)は本当に暴君だったの?

1 李氏朝鮮の国王

王として即位されながらクーデターで王の座を失い。廃位されてしまった光海君。暴君だったとされていますが本当にそうだったのでしょうか。

光海君は廃位されたため王としての呼び名がありません。李氏朝鮮で廃位された王には他に燕山君がいます。しかしどう考えても暴君としか思えない燕山君と違って、光海君は歴史書に書かれているほど悪い王ではなかったのではないか。という意見もあります。

史実の光海君(クァンヘグン)どんな人物だったのか紹介します。

 

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光海君(クァンヘグン)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1575年6月4日
没年月日:1641年8月7日

名前:李琿(イ・ホン)
称号:光海君
父:宣祖(14代王)
母:恭嬪金氏
妻:柳氏

子供:3男1女

彼は朝鮮王朝(李氏朝鮮)の第15代国王です。日本では戦国時代~江戸時代初期の人になります。

おいたち

父は李氏朝鮮第14代国王・宣祖。母は側室の恭嬪金氏。恭嬪金氏は早くに亡くなっていました。

王妃は病弱だったため子がありませんでした。そのため側室の子の中から後継者を選ばなくてはいけません。光海君は有力な候補の1人と考えられていました。しかし宣祖は40歳になるまで後継者を決めていませんでした。

さすがに重臣たちも不安になります。「もう後継者問題を先送りできない」と考えた左議政・鄭澈(チョン・ジョル)は領議政の李山海や右議政の柳成龍(ユ・ヨウンギョン)とともに光海君を世子に推薦しました。

光海君には兄・臨海君(イムヘグン)がいましたが、性格が激しく周りの評判がよくありません。そのため光海君が世子に選ばれるかに思われました。

ところが当時、王の寵愛を受けていた仁嬪金氏が反対しました。光海君の母・恭嬪金氏が亡くなったあとは仁嬪金氏が王の寵愛を独り占めしていたのです。仁嬪金氏には息子の信城君がいました。宣祖も信城君を世子にしようと考えはじめました。

鄭澈は、それでも光海君を世子にしようと主張しました。王の怒りをかって捕らえられました。鄭澈の処分をどうするかで重臣たちの意見は別れてしまいます。当時、朝廷で力を持っていた東人派は強硬派の北人派と穏健派の南人派に分かれてしまったのです。

壬辰戦争(朝鮮出兵)

1592年。朝鮮国内がもめていたころ。日本の豊臣秀吉は朝鮮出兵を実行しました。この戦いを壬辰戦争(文禄の役)といいます。

漢城を離れる直前、光海君は世子に指名されました。

宣祖は仁嬪金氏、信城君らともに都を離れ避難しました。義州に逃れる途中、信城君が死亡しました。

逃げた王の代わりに戦う

宣祖らが義州に避難したあと。

光海君は臨時の朝廷(小朝廷)の代表となりました。10人の重臣とともに寧辺を拠点に活動しました。各地をまわり、咸鏡道と全羅道で義勇兵や物資を集めました。自らも戦闘に参加するなど活躍しました。

ゲリラ戦に慣れていない日本軍は、神出鬼没な義勇兵の攻撃に悩まされることになります。

日本軍が漢城から撤退して宣祖が漢城に入ったあとも各地をまわり兵や人々を勇気づけました。光海君の活動は民衆や重臣たちの支持を集めました。

光海君は懿仁王后の養子となり、世子としての地位を固めつつあるかのように思われました。

しかし評判の高まる光海君に対して宣祖は反感をもつようになりました。

明がいいがかり

1594年。朝鮮は光海君を世子にすると明に伝えました。しかし明は光海君を世子にすることを認めません。「長男がいるのに次男が跡継ぎになるのはおかしい」という理由です。

朝鮮の王や世子は明に認めてもらって正式決定になります。でもそれまでは朝鮮が決めた者を明があとから認めるだけの作業でした。「明が認めない」というのはなかったのです。日本との戦いでは明は朝鮮に軍隊を派遣しました。「この機会に朝鮮を明の言いなりになる国にしよう」と考えていたといわれます。

正式に世子が決まらないまま月日が流れました。

王子を巡って重臣がふたたび分裂

1602年。懿仁王后が亡くなると宣祖は次の王妃を迎えました。それが仁穆王后(インモクワンフ)です。

1606年。仁穆王后は王子・永昌大君(ヨンチャンテグン)を出産しました。宣祖は喜んで永昌大君を世子にしようと考えました。小北派の柳成龍も賛成しました。

またしても重臣たちは分裂してしまいました。今回分裂したのは北人派です。

大北派・・・光海君を世子にしたい。
小北派・・・永昌大君を世子したい。

以後、大北派対小北派の争いが続きます。

1608年。宣祖は世子を決めないまま死亡しました。

後継者になったのは光海君でした。王が突然亡くなったものですから、幼い永昌大君よりも実績のある光海君を次の王にしようという意見がでるのは当然といえます。宣祖は死の直前、光海君を王にするという遺言を残したというのが根拠です。しかし、仁穆王后の決定だったともいわれます。

国王に即位

1608年。光海君は34歳で王に即位しました。

光海君は大北派の李山海、李爾瞻(イ・イチョム)、鄭仁弘(チョン・インホン)を重臣に採用しましました。

光海君の即位に反対していた柳成龍は弾劾を受け処刑されました。小北派は力を失います。

ところが光海君の即位に明が文句を付けました。「臨海君に直接聞いてみよう」と使者を送ってきたのです。光海君は臨海君を脅迫して明の使者に会わせてその場をしのぎました。

しかし臨海君が生きている限り明は王位の正当性に文句を付けてきます。

1609年。臨海君を流刑にしたあと殺害しました。

癸丑獄事(ギェチュクオキサ)で王子を殺害

1613年。朴應犀らが商人を殺して銀を奪う事件が発生しました。

大北派は彼らに「永昌大君をかついでクーデターを起こすつもりだった。仁穆大妃の父・金悌男(キム・ジェナム)が黒幕だ。仁穆大妃も加担している」と嘘の自白をさせました。さらに、仁穆大妃が懿仁王后の墓に呪いをかけたという罪をでっちあげました。

金悌男と彼の息子たちは処刑されました。

1614年。永昌大君を江華島に島流しにしたあと殺害しました。

1615年。綾昌君(ヌンチャングン)を謀反の疑いで処刑しました。綾昌君の兄は綾陽君(ヌンヤングン)。後の仁祖です。

庶子(側室の子)だった光海君には朝廷内にも反対勢力が多く、不安定な政権となりました。光海君と大北派は多くの人々を犠牲にして王座を安定させようとしました。

強硬派の官僚である許筠(ホ・ギュン)や光海君付きの尚宮・金介屎(キム・ゲシ)なども光海君と大北派の計画に参加。反対勢力を潰していきました。

しかし許筠(ホ・ギュン)ものちに粛清されます。

西人派、南人派、小北派が朝廷から追い出されます。光海君と大北派に反感を感じる人々が増えました。

大妃を廃妃・高まる反発

1618年。仁穆大妃を廃妃して幽閉しました。

とくに李爾瞻と金介屎は中心的な働きをしたといいます。不安定だった王権を強化しましたが、力を付けた一部の家臣が金を受け取って官職を売り渡したり職権乱用が広まることになりました。

さすがに大妃を廃する行いには光海君への反発が強まります。動き出したのは西人派でした。

ここだけを見ると、たしかに光海君は暴君といえるかもしれません。しかし、これらの全てを光海君が思いついて命令したのかははっきりとしていません。光海君を支持していた大北派が率先して行なったという説もあります。それでも認めたのは変わりませんから光海君が批判されるのは仕方のないことかもしれません。

しかし邪魔な者を容赦なく処分する一方で荒れ果てた国を立て直すための努力もしていました。次回は光海君の知られざる実績とクーデターで王位を失うまでを紹介します。

クーデターで王位を失った光海君(クァンヘグン)・王としての実績と挫折

 

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