神徳王后康氏(カン氏)朝鮮最初の王妃は太宗によって降格になった

2018年3月5日

神徳王后康氏は李氏朝鮮最初の王妃です。

 李成桂には二人の妻がいました。2番の妻が康氏です。李氏朝鮮を建国したときには1番目の妻・韓氏は亡くなっていたからです。

自分の息子を王にしようとしました。韓氏の息子、李芳遠たちによって神徳王后の息子たちは殺害されてしまいます。そればかりか、神徳王后の墓は壊され降格になってしまいました。

朝鮮最初の王妃なのでなぜここまでされたのでしょうか。

神徳王后康氏(カン氏)の史実

いつの時代の人?

生年月日:1356年7月12日
没年月日:1396年9月15日

名前:康
本貫:谷山康氏
称号:神徳王后
父:康允成(カン・ユンソン、象山府院君)
母:姜氏(晉山府夫人)
夫:李成桂

子供
撫安大君(李芳蕃)
宜安大君(李芳碩、李氏朝鮮最初の世子)
慶順公主

朝鮮の初代国王・太祖の妃です。
日本では室町時代初期になります。

おいたち

 神徳王后の実家の祖先は、高麗の初代国王・王建の母方の祖先と同じです。

父の康允成は28代国王・忠恵王の時代に役人となり高麗王朝に仕えていました。

神徳王后の叔父カン・ユンチャンは太祖の伯父。祖父の娘(太祖の伯母)と結婚していたので親戚でした。

その縁で知り合ったといいます。

高麗は一夫多妻制でした。

李成桂は既に韓氏と結婚していました。郷里にいる妻という意味で郷妻と呼ばれます。

高麗の将軍として都(開京)で暮らしていた李成桂は現地でも妻を娶りました。京妻と呼ばれます。

李成桂は康氏の20歳年上。康氏が結婚したときには、既に成人したイ・ソンゲの息子がいました。

実家の康家は韓家よりも家柄が高く、康氏自身も李成桂の寵愛を受けました。

2男1女を儲けます。

1391年。郷妻の韓氏が死亡します。すると李成桂の康氏への寵愛はますます深くなりました。

1392年。李成桂が落馬して療養中に鄭夢周らが李成桂の派閥を排除しようとしました。危機を察した康氏は、地方に避難していた李芳遠を開京に呼び戻しました。呼び戻された李芳遠が鄭夢周らを排除します。

李成桂は鄭夢周を殺した李芳遠を激しくしかりましたが、康氏がうまくとりなしたので李芳遠は怒りを和らげました。

1392年。李成桂が高麗王を廃して李氏朝鮮を建国すると、王妃になりました。李氏朝鮮最初の王妃・神徳王后の誕生です。

李成桂の前妻・韓氏も王妃になっていますが死後に追尊されたもの。生前に王妃になったのは神徳王后康氏が最初なのです。

後継者問題

李成桂には既に6人の息子がいました(長男は既に死亡)。にもかかわらず神徳王后は自分の産んだ息子を王にしようとしました。韓氏の息子が王になると、自分の死後に自分の息子が殺されるかもしれないという思いもあったでしょう。

神徳王后は鄭道伝と同盟して自分の息子・李芳碩(イ・バンソク)を世子にすることに成功します。

 

李芳碩は神徳王后の産んだ息子の中でも2番め。李芳蕃(イ・バンボン)は素行が悪いというので世子にはなりませんでした。

この決定に一番怒ったのが、李芳遠です。しかし神徳王后と李芳遠の不仲は決定的になりました。しかし王妃として影響力を持つ神徳王后は重臣たちをうまく取り込んでいました。李芳遠もうかつには動けません。

1396年。神徳王后が他界しました。享年40歳。

すると李芳遠は決起します。鄭道伝を殺害したあと、李芳碩と李芳蕃を殺害しました。

死後に格下げになった王妃

神徳王后が死亡すると、太祖は庵をたてて毎日祈りました。神徳王后の陵墓は最高の格式で作られていました。供養のための興天寺も建てました。

神徳王后の死とともに太祖は王としての意欲を失ったかのようでした。

李芳遠が即位して太宗となったことで神徳王后の扱いも変わってきます。太祖が行きている間はまだ問題はありませんでした太祖の死亡後、太宗は神徳王后を貶めるようになります。

太宗は、神徳王后を王妃ではなく後宮に降格しました。

陵墓を移動した後、壊しました。陵墓に使われていた石材は橋に使われました。王妃の墓に使われていた石材を人々が踏むようにしむけたのです。

神徳王后の陵墓は庶民以下の粗末な墓になりました。神徳王后を祀る祭祀も中止になりました。

1669年。18代顕宗の時代にようやく王妃としての地位が復活し、王妃としての陵墓が再建されました。

テレビドラマ

龍の涙 KBS 1996年 演:キム・ヨウンラン
大風水 SBS 2012年 演:ユン・ジュヒ
鄭道伝 KBS 2014年 演:イ・イルファ
六龍が飛ぶ SBS 2015年 演:キム・ヒジョン


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